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izaneの運営するイラストサイトDream*Dropsのブログ。Dream*Drops*Diary、略してD*D*D。サークル情報、参加イベント情報、ギャラリー出展情報などを宣伝するところ。普通の日記もある、かも、ね。
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昨日、「人生とお薬とシモネタについて語る会」と称した飲み会があった。
高専時代の友人ら3人とわたしと。


わたしの結婚式以来に集結したメンバーだった。
だいたいの話は、学生時代の思い出話と、今誰がどうなっただのという話で始まり

結局「お薬」についてはあまり語られなかった。(単に、4人のうち2人が製薬会社に努めてて仕事の話をしたかっただけらしい)

「シモネタ」については、まぁ、何も言うまい。酒の場である。

「人生」については色々と語った。
人生、というか、「幸せ」と「生きる意味」だ。

4人の中で、特にわたしともう一人が熱く語り合った。
お酒が入っていたから、半ば適当な受け答えもしたかもしれない。

ただ、少し書き記しておきたかったのでここに書く。



「何のために生きているのか」

という問いに対して、だいたいの人は「幸せになるため」と答えるか、「生きている目的なんてないのだ」と答える。少なくとも私の周りの人間はそうだった。

私はキリスト教派の意見をもっている(カトリックやプロテスタントではないが)

熱く語り合った相手Jは、自らを「仏教者」と呼んでいた。仏教徒ではないが、文学的に仏教が一番理解できるとかなんとか、言っていた。

Jが言った話の中で、非常に理解できる点が一つあった。

「自分で自らに価値をつけずに、何かに評価を求めてそれを自らに付随させることで価値を見出している人は、悲しい」

これは全くその通りである。
奇しくも私は十代の頃はがり勉のがっちがちの真面目っ子だったので、その「悲しい」人間だったのだが、今は「人生超楽しー!」なよくも悪くもパッパラパーな人間になったので、本当にそう思った。


自分に価値がないと思い込む。
何かに価値を求める。
何かとは、「学歴」や「名誉」だ。

勉強が嫌いなのに、学校が嫌いなのに、実験が嫌いなのに、わざわざ大学院まで言ってストレスを溜め込んでる人がいる。日本トップ3の国立大学の大学院を卒業すれば、「○○大卒」ということにしがみついて、それを自分の価値とする。自分に価値がついたことに安心する。
しかし、その先のビジョンは特にない。良い大学院を出たら、それなりの会社に行けるだろう。だが、それは自分がしたいことではない。したいことでもないのに、おまけにストレスしかたまらないのに、「今○○の件を任されてるから」とか、そのうち「後輩や部下がいるから簡単には辞められないよ」とかいって、ずるずる仕事をする。世界という広い視野で見たら何の役にもなっていない、会社の中でさえただのコマにすぎない。それでも、自らに価値をつくるために頑張る人は、悲しいかな、いるのだ。

わたしもそうだった。
あまりにも無価値な人間に思えてしょうがなくて、教科書を理解する程度には頭はあったから、バカみたいに勉強して、クラストップになって、「すごいね」「頭いいね」「勉強教えてよ」って言われることで自らの存在を作っていた頃があった。
もっと遊べばよかったのに、まるごと背負い込んで処理しようとするから、非効率で、いくら成績が良くてもそういう人間はバカだと思う。

成績がいいからなんなんだと。
いいとこの大学卒業したからなんなんだと。
楽しくもないのに、たいした役にもたたないのに、任された仕事があるからってだけで仕事を続けて何になるんだと。


もちろん、何も悪いことではない。
ある程度社会人として会社で責任を果たすのは当たり前だし、良い大学出れたらそれに越したことはないし、成績が良いのが悪いとは言わない。

ただ、それがどうした、と。


Jは、自分のしたいことをして生きている。今もこの先も自分の好きなように生きようとしている。一度限りの人生、楽しくなくてどうする。自分の価値は自分でつける。何かに価値は求めない。自分のはかりで生きていく。

「幸せになるために生きている」という人でも、Jくらい潔く生きている人は少ないと思う。


私は、高専4年の後半から、いいかげんがり勉だけではやってけないくらい授業にいささかついていけなくなり、ぷつーんと何かが切れて、そこから真面目キャラは捨てた。それでも、その歳まで真面目で生きてきたわたしは、気楽に生きれるようになった反面、何のために生きてるのかをなおさら考えずにはおれなくなった。

しかし、去年のちょうど今頃、私はキリスト教に出会ってしまい、考え方が一変して、生きてる意味も幸せもどう生きるかも見つかった。


その前に、Jの考えを書こう。

人間一人一人に価値などない。自分の価値は自分でつけるもの。人類やこの世の始まりなんていうのは考えるものでもなく、ただただ偶然できあがったものであり、神でも科学でも説明できなくて結構。今を楽しく生きる。人生は一度きり。


対する私はこうだ。

私の考えは、どうしても信仰というものが入ってくるので、無宗教の人には理解しがたいと思うが(私も、キリスト教に出会い初めは半信半疑だった)
私自身は人間一人一人に価値はないと思うが、神は平等に人間を大切だと思っていらっしゃる。この世の始まりは神(まず、なぜ宇宙、地球、人類ができたのかと考えないでいられるのか。人間一人一人の人生とは何かを考えるのと同じくらい、この世界の始まりについても考えるべきだと思う)神に近づき、神に祈ることで、全ての人が幸せになる。いつかかならず楽園がおとずれる。その楽園で、人々は復活する。

そもそもわたしがキリスト教を本格的に支持しようと思ったのは、
人間一人一人はどう考えても無価値であり、たとえ誰かの命の恩人になったところで、例え、世界的に有名なミュージシャンが世界の何千人かの心を癒したところで、超金持ちが被災地に膨大な資金をあげてみせたところで、世界の全人口を物質的にも精神的にも幸せにすることなんてできない、と思ったところからはじまる。
でも、誰でも、精神のいかれてる人や凶悪犯でもないかぎり、大体の人が、「世界中が平和になりますように」と言ってるものなのだ。平和を祈らなくても、「ああ、あの被災地の人たちはかわいそうだな」とか思ったりしてるもんなのだ。なんの寄付もしていなくても。

そんなとき、

「あぁ、もうこれはこの世を造った神に祈るしかない」

と私は思ったのだ。

今は悪い世の中だけれど、必ず良い世界に、アダムとイブが作られたときのようなエデンの園のような世界にもう一度ならせると神がいうのなら、今生きてる人々は、その世界がくるように祈るしかないのだ。

もちろん、ただ祈るだけではだめだ。どのように生きていくべきかは、聖書に書かれていて、それに従って生き、祈らなくてはいけない。
とても宗教くさく聞こえて、宗教嫌いな人にはとてもじゃないけどうけいれられないだろうけど、ともかく、私の考える人の生きる意味は「祈ること」なのだ。

わたしは、自分が満足に生きれただけで、それが人生だとは理解できなかった。

「幸せになるために生きるんだ」と言われても、わたしが幸せになったところで、人間としての生きる意味は何なのかと言いたくなるのだ。

おまけに、そのセリフは、ある程度生活が満たされている人が言えるもんだとおもう。

飢餓や疫病に苦しんでいる、アフリカの貧しい人たちに対して、「幸せになるために生きるんですよ」って、言えるか?

なにも私は、善人ぶるつもりはない。むしろ、どこにも寄付なんぞせずに、とても自己中に「私毎日超楽しい!」って言って生きてる人間だ。「今月給料少なくてさー」とか言いながらも、十分毎日パソコンしたりごはん食べたり絵を描いたり服を買ったりできる生活をしている。

しかしだ。「幸せになるために生きる」というのが、世界中の人々の生きる目的にはなりえないと言いたいのだ。

だから私は、生きている理由がわからなかった。
比較的平和な日本で平々凡々生きているだけで、その目的がわからなかった。

「祈ること」は、世界中のあらゆる人ができることだ。

生きる目的は、「この世が再び楽園となるように、全ての人々が平和に安心して生きることができるように、祈ること。そして、それがどんだけ重要なことかを、できるだけ多くの人にふれ告げること」だ。



Jは言った。
キリスト教は、神に救済を求めている。仏教は、自分で自分を救済する。


確かに救済を求めている。一日も早くこの悪い世界が終わって平和がおとずれますようにと祈っている。
しかし、自分一人の平和を神に求めているわけではない。


仏教とキリスト教では、根本的に考え方が違うので理解し得ない部分は大きいと思う。

ただ、そういう考え方でしか、「生きる意味」についての答えはでないと思う。

そうそう、Jは「答えなんてない」とも言ったっけ。


私は言いたい。「答えはある。人間がそれに気づいていないだけで、出会っていないだけで、答えはある」


まぁ、だからと言って、私は聖書に従って毎日完璧に生きてるわけではないけれど。
そんな大口たたけるだけの知識も何もないけれど。

ものすごいだらだらと無駄なことを書いただけかもしれないけれど。

そしてJさん、Jさんの意見を私が聞き間違えて書いていたらすみません、訂正してください。



ただ、どうしても言いたかったのです。

「何のために生きているのか」

それを考えて、考えて、考えて、何かを見つけてほしい。全ての人に。
広い視野で、考えてみてほしい。

何かみつけた答えが神の言葉であればこの上ないけれど。

私の意見が違うというなら、どうか私に教えてください。生きる意味。
私は見つけたつもりでこれから生きていくけれど、正しいかどうかなんて結局は誰にもわからないことであって、神がいるかいないかを、目で確認することはできないから、どれほど聖書が科学的にも正しくてつじつまが合っていようと、何かをたたきつけて「ほらね!」って言うことはできないことで、信仰ってものに依存しちゃうから


ただ、私の考えを言いたかった。

いろいろと、頭の中を整理したかった。

ただ、わたしは、生きる目的を持って、生きていきたいだけなのです。

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無題
izaneさんありがとう.
先日は貴女の感受性の高さに驚かされ,
長らく無い,エキサイティングな夜を楽しむことが出来ました.

帰宅後すぐに記事を読ませて頂きました.
その中に登場する多くの僕の言葉たち.
僕の真意と共に伝わったものと共に,
やや違った解釈で受け取られてしまったものがあるようです.

その言葉の真意を,この場でもう一度伝える事が果たして貴女にとって良いことであるか.
悩んだ末に,しばらくは伝えないでおこうと思いました.
なぜならば「幸せになることが人生の目的」という簡単な言葉の裏には,
普通の人にとっては大変に厳しく,
そしてこの世界に対して望みを絶ってしまいかねない論理が含まれているからです.

しかし奇しくも今日は3月20日,そして国民の祝日でもあります.
この時間を使って,誤解を恐れつつ,言葉の真意を伝えてみようと思います.

「人間を含めたすべての動物は偶然によって生まれた」
この言葉の真意とは,こういうことです.
あらゆる物体が偶然に作られては,消えて行くという繰り返しの中で,
“自己複製機能”を持った物質が偶然に生まれた.
これを現代では“生物”と定義しています.
さらに,自己複製に有利な機能を持つ個体が現代まで生き残り,
今はその頂点に人間が君臨しています.
したがって,

「人類やこの世の始まりなんていうのは考えるものでもなく、神でも科学でも説明できなくて結構」

と解釈するのは誤りで,
人類が生まれたのは偶然結果生み出された必然の上に成り立っていると言いたかったのです.
そして私たちは自己複製に有利な機能を持って生まれただけの,偶然の産物であるがゆえに,
ひとりひとりの人間に絶対の価値はなく,ひとりひとりの人間に価値をつける存在もなく,
したがって私たちは,自分自身に自らが価値をつける自由と権利を持っているのです.

人間は自由すぎる自由に耐えられません.
その結果生み出されたものが宗教(特に一神教)であり,
全知全能の神が定めた絶対的価値観という枠にはまることで,生きる目的を見出すのだと思います.
(そして厄介なことに,他者の価値観を破壊しようとすることもあります)

しかし実際には,この世界に絶対的な価値もなく,絶対的悪もなく,
同時に絶対的善も幸不幸も存在しないように思うのです.
なぜなら私たちの善悪,幸不幸の基準はその人が享受した教育・文化・社会によって形作られる物だからです.
時に人は善意によって人を殺し(戦争,名誉),
よりよい世界を夢見ても人を殺し(オウム ポアの思想,米国キリスト教徒右派),
自らの幸福を夢見て不幸な人生をすすんで受け入れ(ヒンドゥー教,日本の特攻隊など),
幸福を夢見て経済を発展させた日本人が,痛みの喪失と共に幸福を失う(無痛文明論など)のです.
キリスト教もまた,多様な価値観のうちの一つ,というのが僕の認識です.

「幸せになるために生きるんだ」

という言葉の意味についても,少しばかり補足しておきたいと思います.
なぜなら,あらゆる個人が幸せになりたいと願うことによって,楽園は形作られると思うからです.
その前準備として,

「人はなぜ,人を殺さぬのか(人はなぜ,他者を助けるのか)」

という問について考えてみたいと思います.
貴女も僕もまだ20年と少ししか生きていないので信じがたい事かもしれませんが,
人が人を殺さなくなったのは,人類の歴史上ごく最近(半世紀ほど前)のことです.
ちょっと前まではどうだったかというと

「敵を殺して,仲間を守れ」

という価値観です.
半世紀ほど前までは,あらゆる個人の幸福が形作られる社会の範囲(共同体)が“国”でした.
したがって外国の人間は敵でしかなく,外国の人間を殺して日本の国力を示すことが全日本国民の美徳であったのです.
つまり,上にも書いたように,他者を殺害しないという価値観ですら,全世界の自明の理ではありえません.

人が人を殺さない理由は,人間が社会的動物であるからです.
人間の幸福の多くは他者(社会)との関わりのなかに存在し,
人間が人間を殺すと,その人間は社会という関わりの中から放逐されることを知っているからです.

この豊かな日本においても多くの殺人が起こる理由の一つが,
● 幸福追求を諦めた人間
● 自らの幸福が共同体との関わりの中にあることを実感できない人間
が多く存在するからです(秋葉原無差別殺傷事件など).

つまり,
自らの幸福が社会との関わりの中にあるがゆえに社会を愛し,
自らの幸福が家族,恋人,友人らとの関わりの中にあるがゆえに人を愛し,
苦痛であっても,その苦痛が自らに幸福をもたらすものと知って苦痛をも愛し,
それら全てが自分という存在を媒として味わうことができることを知って,自らを愛するのだと思います.

自らが「幸せになるために生きるんだ」という土台の上に,
自分を包摂している共同体が幸せになることが,自らを幸せにするんだという社会化(教育)があって,
その連鎖によって,楽園は形作られると思うのです.

しかし愛には限りがあります.
だから,貴女から遠く離れたアフリカの貧しい人達に対して,悲哀の念を持っていたとしても
その人達は貴女の共同体の中に含まれないのであるから,寄付活動をしないことも仕方のない事なのです.

さいごに

犯罪(悪人)のない世界を“楽園”ということができるかもしれません.
しかし,犯罪(悪人)を作るのは善人であって,
この世界から犯罪を消し去ることは不可能なことです.
「犯罪は公共的な健康の一要因であり,およそ健康な社会にとっての不可欠な一部分をなしている」
とは社会学者デュエルケムの言葉です.

犯罪(悪人)のない世界がキリスト教の言う楽園ということであれば,
社会的動物である人間の世界には,楽園は存在し得ないという他ないと思います.

他にもまだまだ,話したいことがありますが,
このようなナイーブな話をネット上で展開することについては首元が冷え込む思いがするので
また呑みにでも行きましょう.

J
J 2012/03/20(Tue)17:17:31 編集
無題
Jさん。

お考えを取り違えていたことについてはお詫び致します。
また、確かにこのような意見のやり取りをネット上で展開するのは、たとえ閲覧者の少ない(涙)個人のブログ内でもアレなので、ここではあまりお返事したくありませんが、いくつか意見をさらに聞きたい点があるので、そこだけ書きますね。


まず、生命、人間の生まれについて。なぜそう「偶然」という言葉で理解できるのでしょうか。
その偶然は、なんと恐ろしくわずかな確率でできたのでしょう。何万、何億、何兆分の一?宇宙全体を見て、人間のような生物、地球のような環境、それに近似した、あるいはそれの成長過程のようなもの、それすら見られないこの完全すぎる状態を、私には「偶然による必然」などという言葉では理解ができません。

次に楽園について。
犯罪がないだけが楽園ではないと考えます。それだけでも十分平和なのは想像できますが、例えば病気、そして老い、そこから繋がる死という問題。
聖書にある楽園は、戦争、犯罪はなくなり、自然災害、病気、老いることもなく、あらゆる動物も襲うことなく、死という可能性に繋がるものすべてがなくなった上で、心穏和な人たちが暮らすとあります。
それは現状からはあまりにも想像がつかないので、どんなふうに構成された世界になるのかはわかりません。それに、「終わりがあるからこそ美しい」という考えもよく聞くので、その考えの人からすると、死のない世界と幸福な世界はイコールで繋がらないかもしれません。

殺人と幸福との関係について。
確かに、異国の者は敵として殺すのが常識だった世があったことは認めます。仲間を守る為に誰かを殺すことは、今でも正当防衛として認められるかもしれません。
大昔、神の民だったイスラエル人は、イスラエル人を脅かす敵国を全滅させよという神の命令で殺人したことをありました。
世界的な目で見る殺人、戦いは、その時代や環境で起こるべくして起こったといっても過言ではないでしょう。
キリスト教の中では、悪魔が人をそうさせているとも言います。そう、キリスト教で重要なのは、今この世を支配しているのは誰か、という点。
このことについてここで書くのは躊躇われるので言いませんが、ぜひまた聖書を読もうとされるなら、この世の支配者について注意して見てください。

愛についても言いたいことはありますが、ぼちぼち長くなってきたのでまたの機会に。

ぜひまたお会いしましょう。
その時までに、わたしはまた知識を増やしておくよう努力します。(いろんな考えに対して盲目的な信仰で理論を否定はしたくありませんので。もしただの盲目的な信者の言葉に聞こえたら、その時は注意してくださいませ。
izane 2012/03/20(Tue)18:25:28 編集
無題
izane さん.

生命の誕生と人間の誕生に関しては若干種類の異なる議論ですが,
キリスト教徒にとって特に議論の的となろう,生命の誕生に関して意見してみたいと思います.

生命の起源について考えるにあたって受け入れなければならない事実は,
私達が手に入れることが出来る情報は非常に限られているということです.

貴女が存在しているこの宇宙の大きさも,惑星の数も今のところはっきりとはわかっていません.
この宇宙,銀河,太陽系,地球がいつできたのかも,実際のところ謎が多く残されていますし,
宇宙そのものがいくつ存在するのかも今の私達には知るすべがありません.

現在,人類が観測できる範囲で生命のようなものは確認されておらず,
宇宙の生命密度は私たちの観測限界より低いというのは事実です.

しかし仮に,地球様惑星で生命が発生する確率が0.0001%以下の小さなものであったとしても,
地球様惑星が私たちの想像を超えて無数にあるのであれば,
生命が発生する確率は100%に近いものになり得ます.
そして私たちは自らが存在している時間と空間しか認知することができません.
その結果,私たちは自らの存在を奇跡か神業と錯覚してしまいがちなのだと思います.

別の言い方をすると,生命密度の小さいこの宇宙では,
思考能力を持つ生命が生まれるたびに,必然的に神による創造を考えるということです.

以前僕はこう言ったことがありました.
「死にたくないという感情,他者に抱く愛情,快楽や苦痛といったもの全てが,
自己増殖に適しているという理由で人間に備わっていて,その衝動に突き動かされて生きている」

現代生物学における生命の定義は,「自己増殖するシステム」です.

自身と全く同じ構造を有する物質を複製する機能を持つ低分子,あるいは高分子が偶然に発生し,
偶然により細胞壁をまとった生命が誕生し,これが自己増殖に優れるために増殖し,
偶然により細胞が集まった多細胞生物が自己増殖に優れるために増殖し,
そして危険を察知する機能を持った生命,
食欲を有する生命,
性欲を有する生命などへとつながり,
その果てに,自己複製に有利な機能として最たる,思考能力を持つ生命が発生した.
これが人間の姿ではないかと,僕は思っています.

さて,宗教がなぜ生まれるのかという事を考えたいと思うのです.
なぜなら,過去に存在したあらゆる文明の中には必ず宗教的存在が認められるからです.

キリスト教に限らず多くの宗教が,人間だけでなく他の動物も神が創造したと唱えています.
しかし,あらゆる生物において,唯一人間のみが宗教的文化を発展させています.
それはなぜでしょうか.

それは人間が,「自分にもかならず死が訪れる」ということに気付いた動物だからです.
「死にたくないという感情」を有することが人類の増殖を手伝った一方,
また増殖を手伝った「知恵」という機能が,死の恐怖という逃れ得ない苦しみを生み出しました.
この矛盾から目を逸らせるために生み出されたものが宗教というものだと僕は理解しています.
ほとんどの宗教に死からの開放や死後の楽園,生まれ変わり思想が含まれているのはこのためです.

このような考えでいるので,僕にとって「楽園(救済)」とは,
本能と知識が生み出す矛盾の解答例という意味以上でも以下でもありません.
僕は仏教徒ではありませんが,仏教ではこの矛盾を別のロジックによって消化しています.

最後に,この世の支配者と悪魔について少しだけ.

僕はキリスト教の考え方については非常に価値があると思っていますし,
道徳宗教としても素晴らしいと思います.
しかし私がキリスト教を含めた宗教に対してある種否定的な感情を持っているのは,
絶対的存在がこの世を支配しているという考え方,
そして天国や楽園,来世を期待するという考え方がどうしても僕に合わない感触があるからです.

なぜなら,カルマの論理や,絶対的支配者が存在するという論理には,
今存在する,今まさに飢餓や差別,格差で苦しんでいる人が存在するこの世界を
良くしようという努力は無意味だという論理的帰結を生む可能性が高いからです.

絶対的存在に祈ることも,来世を夢見て現世で苦しみを受け入れて死んでいく事にも,
「楽園」の訪れを待つことに対しても僕は全く否定的ではありません.
しかし僕は今僕が存在している,この今を精一杯幸福に生きていきたいと思うのです.

izaneさんの疑問の答えになることを期待して.

J
J 2012/03/25(Sun)03:22:00 編集
無題
二重投稿ミスです.
ごめんなさい.
J 2012/03/25(Sun)03:46:44 編集
無題
>Jさん

色々とお返事ありがとう。
唯一つ最初に言わせていただきたいことがあります。

Jさんの言い方難しいwwwww


はい、失礼しました脳がたりてないのでしたすみませんでした。


確かに、今現在地球にいる人類からすると、神業としか思えない確立で存在していると思えても、実際はそんなことないかもしれませんね。その通りです。誰もそんなこと確認できない。イメージするしかないという点で、創造論も進化論も、宗教でしょう。

Jさんの確固とした生き方は、他の同年代には見られない姿勢であり、感心します。ただ、何故でしょう、宗教嫌いだった私が宗教に結論を見出し、Jさんの意見に賛同することができないのは。
「信仰」を抱いてしまったからでしょうか。私には、その状況を「聖霊が導いてくれたから」と確信しているのですが、宗教家でなければそんなの頭のおかしい戯言に聞こえるかもしれません。

私は、他の宗教や哲学科の考え方はおろか、自分の支持する宗教すらまだ完璧に理解できてません。
それでも、何かがわたしをキリスト教にひきつけている。
理論的なことを述べられるJさんに対して、このようなアバウトな主張はしたくないのですが、語彙の乏しい私にはなんと返したらいいかわからないのです。ごめんなさい。

最後にひとつだけ言わせてください。
エホバの証人の語る真理を本心から知りたいのであれば、私なり、誰か証人の方に近づいてください。
知識として知りたいのであれば、聖書を独学なさってください。

なんだかほんと、宗教臭いのは私も嫌なんですが
それでも、わたしは真理と思ってしまった以上、それを語り継げよという命令に従いたいと思いますが、真理を知ることを目的としない方に、教えようとは思いません。知ってくれたら嬉しいし、そうして広まってくれることを望んでいますが、なかなか広まらないよって聖書にもあるので(笑


ただ

ここでだけ、弱音を吐くのですが

生きる目的を自分なりに知ったけれど
どうして生まれてきたのか、最近虚しく感じるようになりました。
望まれずに生まれてきたということは
こんなにも虚しいことなんでしょうか
愛のない家族はこんなに虚しいものだったのかと


ごめんなさいね。関係のないことまで書いてしまいました。
izane 2012/03/26(Mon)23:46:46 編集
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プロフィール
HN:
izane
年齢:
35
HP:
性別:
女性
誕生日:
1988/07/07
職業:
会社員
趣味:
絵を描くこと
自己紹介:
絵描きを目指す社会人。
ギャラリー企画のグループ展にちょいちょい出展したり、音楽同人サークル「格納庫」にて、ジャケットなどのイラストを担当したりしている。
絵のお仕事・ご依頼あれば、無償でも承りますのでよろしくお願いします!
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